神辺城

別名 黄葉山城
   楓山城
  麓城
    道上ノ城 
付近住所 広島県福山市神辺町川北 現在 吉野山公園
2009/9/12 碑・案内板アリ 日本城郭大系


朝山景連

仁木義長

細川頼春

高師康

上杉顕能

渋川義兼

山名時義


杉原理興

平賀隆宗

杉原盛重

藤井皓玄

毛利元康


福島正澄

水野勝成
 神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城跡は、室町時代初め頃に築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25箇所確認されています。郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀、井戸の跡も残っています。
 山城は戦の時に立て籠もる施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に武士の屋敷があったと考えられています。
 以後、江戸時代の初めまで約300年間にわたって備後地方南部の拠点として威光を誇っていました。

 神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2(1335)年築城したと伝えられています。以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
 戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。
 元和5(1619)年の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後の中心的役割を果たしてきた城です。

      

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